LOGIN五日後。
長い旅の間、私はほとんど眠れなかった。 たまに棺の隙間から食事と水は与えられたが、棺から出ることは許されなかった。身体は重く、手足は冷たくなっていく。 不意に、棺の外から賑やかな人々の声が聞こえてきた。 馬車の車輪が石畳を踏む音に混じって、兵士たちが何かを叫んでいる。 「エルシア王国の使節団だ!城門を開けろ!」 その声を聞いて、ようやくヴァルガ王国の王都テナンに到着したのだと分かった。 私は少しだけ安堵した。ようやく、この暗闇から出られる。 たとえ、そこに待っているのが恐ろしい王だったとしても、永遠の暗闇よりはましだろう。 馬車が止まる。 外から、低い声が聞こえた。 「エルシアからの使者か」 聞き慣れない、深い声だった。 「はい!国王陛下より、花嫁をお連れいたしました!」 使者の声が響く。 「花嫁?」 別の男が、怪訝そうに繰り返した。 「……なぜ棺に入っている」 「それが、我が国の伝統でございまして……」 嘘だ。 そんな伝統は、エルシアにはない。父はなぜこんなことをするのだろう。 ただの嫌がらせにしては手が込みすぎている。そもそも、両国和平のための結婚だったはずなのに。 私は棺の中で唇を噛んだ。 「開けろ」 低い声がした。その一言で、周囲が静まり返った。 棺の留め具が外される。 重い蓋が、ゆっくりと持ち上がった。 眩しい光が差し込む。私は思わず目を細めた。 ぼんやりとした視界に、何人もの男たちが映る。 皆、身体が大きかった。褐色の肌に、逞しい腕。鋭い眼差し。腰には剣を帯び、重厚な衣装をまとっている。 そして、その中心に立つ男に、私は息を呑んだ。 黒い短髪。彫りの深い、精悍な顔立ち。広い肩と厚い胸板。 その身体を包む黒と深紅の衣装は、豪奢でありながら、どこか戦士の鎧を思わせた。 何よりも目を奪われたのは、その瞳だった。 燃えるような赤。 私を見下ろす視線は鋭く、まるで獲物を逃さない猛獣のようだった。 この人が、ゼルハン王に違いない。 私は慌てて身体を起こす。 「エルシア王国第三王女、シェリア・エルシアと申します。このたびは、陛下との婚姻の栄誉を賜り―」 長い間横になっていたせいか、足に力が入らない。 棺の縁に手をかけた瞬間、目の前が暗くなり、身体が傾いた。 「……っ!」 落ちる! 咄嗟に顔をかばう。けれど、地面に打ちつけられることはなかった。 大きな腕が、私の身体を受け止めたからだ。 「……!」 顔を上げる。 赤い瞳が、すぐ近くにあった。 恐怖で息が止まる。 彼の腕は、私の腰をしっかりと支えていた。 「……離してください」 思わず声が漏れ、すぐに後悔する。 王に向かって、なんて無礼な。 「も、申し訳ございません」 彼は答えず、ただ私の顔をじっと見つめていた。 深く頭を下げようとしたけれど、彼の腕に支えられたままでは、それもままならなかった。 「お支えいただき、ありがとうございます。陛下のお手を煩わせてしまい、誠に申し訳ありま―」 遮るように、彼の低い声が髪を震わせた。 「お前がエルシアの王女か」 声があまりにも近く、驚いて彼を見あげる。 瞬間、その表情がわずかに変わった。 驚き。そして、信じられないものを見つけたような眼差し。 低い声が再度耳を震わせる。 「……ようやく、見つけた」 私は意味が分からず、瞬きをした。 すると、彼の視線が私の首元へ移った。 銀の首輪。 次の瞬間、彼の表情が凍りついた。 「誰が、これをつけた」 「え……」 「答えろ」 あまりの迫力に、身体が固まる。 「ち、父です……。私の父が……」 彼の赤い瞳が、さらに鋭くなる。 周囲の男たちが一斉に身構えた。 「陛下」 側近らしい男が声をかける。 「その銀には――」 「分かっている」 ゼルハンは私の顎に手を添えた。 私は思わず目を閉じる。「シェリア!」焦ったような声が鼓膜を響かせる。気づいた時には、大きな腕が私の腰を支えていた。「……陛下」顔を上げると、赤い瞳がすぐ近くにあった。「何をしている。顔色が悪い」「……申し訳、ございません」「どこか苦しいのか」「胸が、少し……」そう答えたところで、私は言葉を止めた。……あれ?苦しくない。先ほどまで胸を締めつけていた痛みが、嘘のように和らいでいた。息が上手く吸える。彼の腕に支えられたまま、私はゆっくりと深呼吸した。「シェリア?」「……治まりました」ゼルハンは眉をひそめた。「本当か」「はい。もう、大丈夫です」「無理をするな」「いえ、本当に……」自分の胸に手を当てた。まだ鼓動は少し速い。けれど、あの嫌な息苦しさは消えていた。不思議だった。朝からずっと身体のどこかが落ち着かなかったのに、今はひどく安心していた。「……陛下」「何だ」ふと彼を見上げる。いつもの重厚な鎧とは違い、動きやすそうな黒い布の洋服を身につけている。額にはうっすらと汗が滲み、短い黒髪も少し乱れていた。おそらく鍛錬の最中だったのだろう。「お忙しいのではありませんか」「それがどうした」「私のために、お時間を取らせてしまって……」「シェリア」彼は私を見下ろした。「お前の姿が見えたら、どうにも鍛錬どころではなくなってな」「……え?」あまりにも自然に告げられて、私は瞬きをした。「俺がいるのは、不都合か」「い、いいえ!そんなことは……」慌てて首を振る。彼はわずかに目を細めた。笑った、のだろうか。「……あの」「何だ」「陛下は……どうして私にそんなに親切にしてくださるのですか」ずっと、聞きたかったことだった。私たちは昨日、初めて会ったばかりだ。それなのに彼は私を守り、気遣い、こうしてそばにいてくれる。「私は……陛下のお役に立てるような人間ではありません」「誰がそんなことを言った」声が低くなった。思わず肩を震わせ、反射的に質問に答えてしまう。「父も、兄たちも。私は何の取り柄もない……」そこまで言って、慌てて口を閉じた。こんな話をしてはいけない。身内の言ったことを、他国の王に聞かせるなんて。「……申し訳ございません。つまらないことを」「つまらなくなどない」彼の手が、私の肩にそっと触れた。彼の眉が一瞬歪んだよう
「……あの棺を調べろ」 同じ頃、ゼルハンは執務室でカイルに命じていた。 「棺、ですか?」 「ああ。シェリアを運んできた、あの白い棺だ」 カイルは眉をひそめた。 「問題は、陛下が外された首輪にあったのでは?」 「首輪だけで、これほどの呪いが完成するとは思えん」 ゼルハンは袖をまくった。 褐色の腕には、黒い筋が幾重にも浮かび上がっている。 昨夜よりも、確実に広がっていた。 「エルシア王は、なぜ娘を棺に閉じ込めた」 「……敵国へ嫁がせる娘に対する、嫌がらせでは」 「それだけなら、もっと簡単な方法がある」 ゼルハンは低く答えた。 「わざわざ棺を造り、五日間も生きたまま運ばせた。何か理由があるはずだ」 カイルは黙り込んだ。 「宮廷魔術師に調べさせろ。棺の内側も、金具も、敷かれていた布も、すべてだ」 「承知いたしました」 カイルは一礼しかけ、ふと思い出したように顔を上げた。 「……陛下」 「何だ」 「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」 「言え」 「なぜ、あの王女だったのです」 ゼルハンの手が止まった。 「エルシアには、ほかにも姫君がいると聞いております。和平の条件として、陛下はなぜ第三王女を指名なさったのですか」 沈黙が落ちた。 ゼルハンは窓の外へ視線を向けた。遠くに連なる山々。 その向こうには、かつて何度も剣を交えたエルシアの国境がある。 「……必要だったからだ」 「それは、番だとお気づきだったからですか」 「そうだ」 「では、いつから……」 「カイル」 静かな声だった。 けれど、それ以上の質問を許さない響きがあった。 「今は、棺を調べろ」 「……御意」 カイルは深く頭を下げた。 扉が閉まる。 一人になったゼルハンは、机の引き出しを開いた。 中には、古びた一枚の紙が収められている。 数年前、エルシアとの外交使節から得た記録だった。 そこには、たった一人の公女の名が記されていた。 シェリア・エルシア。 ゼルハンは、その文字をしばらく見つめていた。 ※※※ 昼前まで、私は寝室の寝台で身体を休めていた。 リナは食事を運んできてくれたものの、起き上がろうとする私をやんわりと制し、寝台の上で食べるよう勧めてくれた。 すべてを食べきることはできなかったけれど、食事を終える頃には、朝よりも
……あたたかい。柔らかな寝具に包まれながら、私はゆっくりと目をこする。薄いカーテン越しに、朝の光が差し込んでいる。ふかふかの枕に頬を寄せると、清潔な布の優しい香りがした。こんなに深く眠れたのは、いつ以来だろう。もう少しだけ、このままでいたい。何も考えず、ただ微睡む。それが、ひどく贅沢なことに思えた。ふと、違和感を覚えた。私の寝台は、こんなに柔らかかっただろうか。私は身体を起こし、あたりを見回した。見上げた天蓋には、見覚えのない繊細な刺繍が施されていた。窓も、家具も、壁の色も、何もかもが、私の部屋とは違っている。「……あ」一瞬にして、眠気が吹き飛んだ。そうだ。ここはエルシアではない。昨日、私はヴァルガ王国へ嫁いできたのだ。白い棺。冷たい銀の首輪。重い蓋が開いたとき、私を見下ろしていた赤い瞳。ゼルハン陛下。「……っ!」私は慌てて身体を起こした。昨夜、あの方は確か、この部屋にいらっしゃったはず。急いで隣に目を向ける。けれど、そこには誰もいなかった。寝台の周囲を見回し、昨夜彼が休んでいた長椅子へ視線を移す。きれいに畳まれた毛布が、一枚。人の姿はなかった。私は寝具を握りしめた。一国の王の寝室で、こんな時間まで眠り込んでしまった。しかも、部屋の主がいなくなったことにも気づかずに。どうしよう。とても失礼なことをしてしまったに違いない。「……落ち着かなくちゃ」小さく息を吐き、乱れた寝具を整えようとした。そのとき、胸の奥がちくりと痛んだ。「……っ」思わず手を当てる。ほんの一瞬の痛みだった。けれど、胸の奥に何かが引っかかっているような、奇妙な息苦しさが残る。私はしばらくじっとしていた。……五日間も棺の中にいたのだから、まだ身体が弱っているのだろう。そう自分に言い聞かせたところで、扉が控えめに叩かれた。「失礼いたします。姫様、お目覚めでしょうか」「はい」入ってきたのは、栗色の髪を結い上げた若い侍女だった。彼女は私を見ると、にこりと微笑んだ。「おはようございます。私はリナと申します。本日より、姫様のお世話を仰せつかりました」「シェリアです。よろしくお願いします」そう言って頭を下げると、リナは驚いたように目を丸くした。「ひ、姫様、どうか頭をお上げください」「え?」「私などに、そのような……」慌てる彼
その夜、私はなかなか眠れなかった。柔らかな寝台。温かな毛布。暖炉の火が、部屋を優しく照らしている。何も怖いものなどないはずだった。けれど、目を閉じると、あの暗闇が蘇る。棺の蓋が閉まる音。息苦しさ。父の冷たい声。見送りにすら来ない兄。『王に触れさせるまでは、死なれては困るからな』「……っ」私は勢いよく目を開けた。心臓が激しく鳴っている。息が苦しい。「……大丈夫」小さく呟く。「ここは、棺の中じゃない……」そう言い聞かせても、身体の震えが止まらなかった。「シェリア」低い声がした。私はびくりと肩を震わせた。寝台の隣に置かれた長椅子から、ゼルハンが起き上がっていた。「……陛下」「眠れないのか」私は答えられなかった。彼はゆっくりと立ち上がる。大きく逞しい身体が近づいて来た。私は反射的に身を縮める。すると、彼は足を止めた。「……近づかない方がいいか」彼は、私が怖がっていることに気づいている。それでも、怒らない。それどころか私を気遣っている。「……申し訳ございません」「謝るな」彼は寝台から少し離れた椅子に腰を下ろした。「ここにいる」「……え?」「お前が眠るまで、ここにいる」私は彼を見つめた。赤い瞳には、暖炉の火を映っている。恐ろしいはずのその瞳が、今は不思議と温かく見えた。「……陛下は、お休みにならないのですか」「俺は平気だ」「ですが……」「シェリア」彼は静かに私の名前を呼んだ。「お前は、もう一人ではない」その言葉を聞いた瞬間。胸の奥に、何かが込み上げた。私は慌てて俯いた。涙が落ちそうだった。こんなに優しくされたことなど、なかったから。「……ありがとうございます」かすれた声で答える。彼は何も言わなかった。ただ、そこにいてくれた。やがて、私はゆっくりと目を閉じた。今度は、暗闇が気にならなかった。すぐそばに、誰かがいる。それだけで、こんなにも安心できるなんて。眠りに落ちる直前。彼と目が合い、ほんの少しだけ微笑んだ。※※※深夜。彼は静かに立ち上がった。寝台では、シェリアが穏やかな寝息を立てている。その頬には、かすかな涙の跡が残っていた。ゼルハンはしばらく彼女を見つめ、その涙を拭おうと手を伸ばした。頬に触れたその瞬間、指先に疼くような痛みが走った。「……っ」反射的に手を引
「陛下、お話がございます」カイルが寝室に入ってきたのは、それから間もなくのことだった。私は暖炉のそばに置かれた椅子に座り、侍女が用意してくれた温かいお茶を飲んでいた。ゼルハンは私から少し離れた場所で、カイルと向き合っている。「何だ」「……お身体のことです」カイルは私をちらりと見た。「できれば、お二人で」その視線の意味は、すぐに分かった。私には聞かせたくない話なのだろう。「私は席を外します」立ち上がろうとすると、ゼルハンが手で制した。「必要ない」「ですが、陛下」「シェリアはここにいればいい」カイルの表情が険しくなる。「……承知いたしました」彼は一度深く頭を下げた。「先ほどの症状ですが、宮廷魔術師に確認させるべきです」「後でいい」「後では遅いかもしれません」ゼルハンの眉がわずかに動いた。「カイル」「陛下。あの黒い紋様は、通常の魔術反応ではありません」私は思わず顔を上げた。黒い紋様。先ほど、彼の腕に浮かんでいたものだ。「……呪術の可能性があります」カイルの言葉に、部屋の空気が張り詰めた。呪術。その言葉は、エルシアでも恐れられていた。人の命や精神を蝕む術。私は思わず首元に手を当てた。そこには、もう銀の首輪はない。けれど、かすかな熱が残っている気がした。「……あの」二人の視線が私に向いた。私は緊張しながら口を開いた。「もしかして……私がつけていた首輪と、関係があるのでしょうか」カイルの目が鋭くなる。「それを、あなたが聞きますか」「……え?」「あなたは、あの首輪が何なのか、本当に知らなかったのですか」その声には、明らかな疑いが込められていた。私は慌てて首を振った。「父からは、護身のためのものだと……」「護身?」カイルが低く笑った。「エルシアの公女は、ずいぶんと奇妙な護身具を使うのですね」「……申し訳ございません」何を謝ればいいのかも分からなかった。けれど、謝ることしかできなかった。「カイル」ゼルハンの声が響いた。「それ以上、シェリアを責めるな」「ですが――」「俺の命令が聞こえなかったか」カイルは口を閉ざした。その表情には、納得できないという感情がはっきりと浮かんでいる。私は膝の上で手を握りしめた。この国の人たちは、私を歓迎していない。当然だった。エルシアとヴ
「陛下!これ以上は危険です!」側近の男が、切迫した声を上げた。ゼルハンの腕には、黒い筋が浮かび上がっていた。それは手首から肘へ、肘から肩へと、少しずつ広がっていく。「私なら大丈夫です。もう歩けますから……!」「……問題ない」そう答える彼の声は、明らかに苦しそうだった。「問題ないはずがありません!」側近の男が一歩踏み出した。「その娘をお離しください。今すぐに!」「黙れと言ったはずだ、カイル」ゼルハンが低く告げる。その声には、逆らうことを許さない威厳があった。カイルと呼ばれた男は、悔しそうに唇を噛んだ。「……御意」けれど、その目は私を鋭く睨んでいた。まるで、私が王に何か恐ろしいことをしたかのように。胸が冷たくなる。やはり、私が原因なのだろうか。私は彼の腕から逃れようと、そっと身体を動かした。「動くな」「ですが……」「落ちるぞ」その言葉と同時に、彼の腕が私の背中を支え直した。黒い筋が浮かんだ腕で。「……っ」彼が小さく息を詰めた。私は動くのをやめた。「申し訳、ございません……」「謝るな」短い返事だった。彼は私を抱えたまま、城の奥へと歩き出した。※※※ヴァルガ王城は、私が育ったエルシアの王宮とはまるで違っていた。高い天井。黒い石で造られた太い柱。壁には、戦場を描いた巨大な絵画が飾られている。窓の向こうには、王都テナンの街並みが広がっていた。赤茶色の屋根が幾重にも重なり、その先には雪をいただいた山々が見える。美しい景色だった。けれど、私にはそれを眺める余裕がなかった。ゼルハンの腕に浮かんでいた黒い筋が、まだ消えていない。彼は何事もなかったかのように歩いている。けれど、時折、呼吸がわずかに乱れるのが分かった。「……陛下」「何だ」「お身体は、本当に大丈夫なのでしょうか」彼は私を見下ろした。「心配しているのか」「もちろんです」思わず答えると、彼が少しだけ目を見開いた。私は慌てて言葉を続けた。「その……陛下に何かあれば、両国の和平にも関わります……」「……そうか」なぜか、彼の声が少し低くなった気がした。私は余計なことを言ってしまったのだろうか。彼はそれ以上何も言わず、長い廊下を進んだ。やがて、大きな扉の前で足を止める。「開けろ」控えていた兵士が、慌てて扉を開いた。その先に







